闇に消えた対中国地下放送



 1966年に勃発した文化大革命は中国国内を大混乱に陥れた。それと同時に、その混乱に乗じるかのように地下放送が暗躍し始めた。中国国内からの放送を装ったそれらの放送の一部は、文革が終結した後も放送を続けた。どのような機関が、何のために行ったのか。闇に消えた地下放送の謎を追った。(1)

「解放軍之声」と「火花」

 地下放送の出現を初めて伝えたのは1967年1月13日付の朝日新聞であった。香港特派員電のこの記事は「香港に毎夜、どこからともなく流れてくる2つの秘密放送の電波が中国問題専門家たちの注意を引いている。中国の人民解放軍に対する工作に重点をおいた『解放軍之声』と”権力派”の擁護を叫ぶ『火花』で、いずれも12月半ばごろから毛・林主派反対の声を流している」とし、さらに「初めは国府の謀略放送とみられていたが、最近ではどうもそうではなさそうだという見方が強い」と述べている。ニューヨーク・タイムズ紙も1968年7月22日付けの香港電で「解放軍之声」の出現を伝えた。同紙は「北京之声」という反毛地下局の存在も報告されていると報じている。
 「火花」は20:00ごろ、9600kHzで受信できた。「這里是火花(3回繰り返す)。我們将要帯給尓們更多的『燕山夜話』」というアナウンスでいきなり始まった。「燕山夜話」は文化大革命の初期に「三家村反党グループ」の一人として批判されたトウ拓(党北京市委員会書記)の著書。放送内容は人民日報の社説などを批判したもので、終わりには必ず「打倒毛林少数派!我們革命的共産主義青年員万歳! 偉大的中国共産党万歳!」などと叫び、その後再び開始時のアナウンサーが出てきて「這里是火花。。。更多的『燕山夜話』。同志們!請継続収聴我們更多的『燕山夜話』。同志們!再見」で終了した。
開始時と終了時のアナウンサーはいつも同一の男のアナウンサーであった。
 「火花」の1971年8月当時のスケジュールは次の通りであった。
18:00 9600kHz
18:30 7165
18:45 9600
19:00 7185
20:00 7185
22:45 7185
00:00 7185
 いずれも約7分間の放送で、上記のスケジュールはかなりの間、変動なしに続いた。 
 「解放軍之声」は、7290kHzで00:00〜01:00にかけて入った。いかにも軍人らしい男の口調で、「請注意!這里是解放軍之声」というアナウンスとともに中国国歌「義勇軍行進曲」の合唱がかかった。「義勇軍行進曲」は、文革以前には北京放送局でも「東方紅」のあとで演奏されていたが、作詞者の田漢が文革で批判されたため、当時は国慶節などに限って、メロディーだけが演奏されるようになっていた。
 この曲が終ると、「請注意!這里是解放軍之声。同志們!解放軍指戦員同志們。。。」とその日の放送内容に入っていった。終わりには「打倒反革命毛林少数派!我們革命的解放軍万歳!偉大的中国共産党万歳!同志們!這里是解放軍之声。同志們!再見」と呼びかけて終った。1969年ごろからは、終了時にも「義勇軍行進曲」をかけるようになった。
 この放送は1971年ごろが一番活動が活発であった。同年8月当時のスケジュールは次の通り。放送時間は約7分間。
18:30 9660kHz
19:00 9660、11795
19:30 9660、11795
20:00 9660
20:15 15055
21:00 9660
21:30 7290
21:45 11795
22:00 9600、9660
22:15 7290、15055
23:00 9660、11795
00:00 7290
01:00 7290
 2波を使用しているときは同一内容であっても、同期ではなかった。「解放軍之声」はその後、1989年に姿を消すまで20年以上も放送を続け、一番長く放送を続けた地下放送となる。

「中国共産党広播電台」

 1968年初め、新たな地下放送「中国共産党広播電台」の存在が確認された。(2)6090kHzで受信された。「中国共産党的同志們!請注意!請注意!」というアナウンスが繰り返され、「這里是中国共産党広播電台(2回繰り返す)。我們是中国共産党員、也是熱誠的馬克斯列寧主義者。。。」と放送の初めにアナウンスされた。終わりには「這里是中国共産党広播電台。我們必須中国共産党的党員高挙着馬克斯列寧主義的紅旗。。。注意収聴我們的播音。我們要為我們共同的目標奮闘。。。中国偉大的無産階級革命必須回到正確的馬克斯列寧主義的路線。同志們!現在要我們高呼。偉大的中国共産党万歳!偉大的馬克斯列寧主義万歳!偉大的社会主義建設万歳!無産階級専政万歳!中華人民共和国万万歳!這里是中国共産党広播電台(2回繰り返す)。同志們!再見」というアナウンスの後に「団結就是力量」の合唱が流れた。
 放送時間は1970年8月当時、18:00、21:00、23:00で、それぞれ約10分間。1970年4月には11320kHzも使用していることが確認された。6090kHzとは数秒ずれていた。一方が強力なときは、他方の波は弱いという現象がみられた。
 「中国共産党広播電台」はややその性格があいまいであった。放送の中で「毛沢東」と呼び捨てにせずに「毛主席」という言葉を使っていたのが特徴。同放送は71年4月ごろ聞こえなくなった。

「無産者戦闘師」

 「無産者戦闘師」が初めて受信されたのは1968年12月3日。「請注意!我們是無産者戦闘師(2回繰り返す)。現在我們要向大家做一個重要的宣布」と男のアナウンサーがゆっ続きり2回繰り返して始まった。放送時間は約10分間。終わりには「我們要継続為恢復中国共産党而努力奮闘。馬克思列寧主義万歳!馬克思主義的中国共産党万歳!同志們!我們是無産者戦闘師。。。」とアナウンスがあった。
 アナウンサーの発音には癖があり、「毛林邪幇」「毛家党」という言葉がよくでてきた。
 7525kHzの1波しか使わないのが特徴で、1970年ごろには23:30の1回だけだったが、1年後には19:45、21:15、23:30、23:45と回数が増えた。1971年5月ごろ、局名も「戦闘師」となり、「インターナショナル」で開始・終了するようになった。  


親毛派地下放送の出現

 文革中現れた地下放送の中で最も奇怪で唯一の親毛沢東派の放送が「解放軍積極分子戦闘兵団広播電台」である。1968年10月26日に6195kHzで初めて受信された。それ以後しばらく聞こえず、1969年から1970年に不定期に19:00と21:00に7105kHz出でていた。信号は極めて強力で、番組は約15分間。同放送は、「東方紅」の合唱とともに開始した。合唱の途中で「解放軍積極分子戦闘兵団広播電台」と2回繰り返し、合唱が終わると「解放軍積極分子戦闘兵団広播電台。現在向全区指戦員跟們広播(2回繰り返す)。解放軍指戦員戦士同志們、無産階級革命派的戦友們、紅衛兵少将。。。工人同志們!我跟戦士同志們、無産階級革命派的戦友們、紅衛兵少将。。。工人同志們!我們。。。」と軍人口調のアナウンサーが演説を始めた。内容は「われわれは毛主席を防衛し、プロレタリア文化大革命の勝利の成果を防衛する。永遠に毛主席に忠であり、永遠に毛沢東思想に忠である司令部である」などと毛沢東を讃え、文革を支持する放送であった。同放送は終了時にも「東方紅」を流した。1971年4月には、この放送も聞こえなくなった。

「真正代表無産階級的工農広播電台」

 「真正代表無産階級的工農広播電台」は1970年4月11日の受信記録があるのみ。7305kHzで、19:00から約5分間の放送であった。「這里是真正代表無産階級的工農広播電台」と2回繰り返して始まった。「我們工人。。新中国的主人。我們工人階級必須領導一切。同志們!工農。。。節目現在報告新聞。。。」と内容はニュース形式のようであった。終わりには「同志們!我們工人階級必須為労働群衆的。。x努力!全世界無産者聯合起来!無産階級的専政万歳!」と叫び、「這里是真正代表無産階級的工農広播電台(2回繰り返す)。請注意収聴、請注意収聴」のアナウンスで終了した。
         
局名のない地下放送

 局名のない文芸局を最初に確認したのは1970年7月2日。不定期な放送で、 12:45に11735kHz、16:50に11280kHz,21:25に7085kHzで出ていた。この放送は女性のアナウンサーの「各位同志、文芸節目現在開始」というアナウンスとともに始まり、当日放送する京劇の紹介のあと、京劇が1時間も続いた。この放送の背景には、文革時には”革命現代京劇”のみ許されていたという事情もあったと思われる。同放送はジャミングを受けていた。また、同放送が出ていた時には「中国共産党広播電台」は出ていなかった。
  
「新聞与音楽電台」

 続いて、中国地下放送の中では、最も地下放送らしくない「新聞与音楽電台」が現れた。1971年9月28日が最初の受信である。(3)ドヴォルザークの「新世界」で始まった。「毎日午後5時から午後6時まで、周波数は7155kHzで放送する」とアナウンスした後、テレタイプの「カタカタ」というノイズとともに1回目のニュースとなった。
 当時は国連で中国代表権問題が最大のヤマ場をむかえていたころで、ニュースもこの問題を扱っていた。ニュースは約10分間。その後、35分間の音楽番組となり、中国音楽ばかりでなく、西洋音楽も流していた。終る前にもニュースを流した。周波数は7155kHzのほかに6070kHzを使っていたが、別の番組を流していた。1971年12月には9570kHzも加わった。1972年3月ごろからは17:30に開始し、18:40に終了した。同放送は1972年5月ごろまで聞こえていたことは確認されている。局名のない文芸局は「新聞与音楽電台」が現れたときには、既に消えていた。

中波地下放送「紅旗広播電台」現る

 同じ時期の1971年9月11日、中波の995kHzで「紅旗広播電台」の存在が確認された。北海道では信号は極めて強力であった。(4)21:30、22:00、22:30に10分間の放送であった。「紅旗広播電台、紅旗広播電台」とゆっくりとしたアナウンスで始まった。林彪事件直後のこの放送は、林彪を毛沢東とともに非難しており、事件の発生をうかがわせるものはなかった。毛沢東に関しては、「毛家王朝」「毛沢東匪幇」「假馬列主義者」などの言葉を投げつけていた。アナウンサーは2人の男性で、1986年に閉局するまで変わらなかった。番組は評論、ニュース、掛け合いの相声など。同放送のアナウンサーの中国語は特徴的であった。 

林彪事件と地下放送

 1972年、ニクソン米大統領が中国を訪問し、中国からはしきりに「異変」が伝えられ始めたころ、中国地下放送にも明らかに異変が起こり始めた。「火花」「解放軍之声」「戦闘師」の活動が不活発になった。(5)
 「紅軍広播站」が現れたのはこのころである。(6)同局は放送時間、周波数とも一定しておらず、神出鬼没の感があった。開始アナウンスは「我們是紅軍広播站。現在向全党同志、全軍指揮員和全国人民広播」で、「解放軍進行曲」がかかった。
 林彪事件が起き、ニクソン大統領が訪中した後だけに論調も大きく変化した。「毛周反革命集団」という言葉で指導部を攻撃するようになった。同放送は、1977年には消えた。(7)
 最も謀略性の強い偽「中央人民広播電台」が現れたのもこのころと推定される。(8)同放送は30分間の放送の冒頭と最後の部分は本物の中央人民広播電台の録音が使用され、中間部分の10分間程度が偽の番組となって、指導部を批判する報道や論評が流された。偽の部分はアナウンサーの発音が悪く、すぐに偽物と判断できるほどであった。同放送は1974年ごろには、20:00、20:30、21:00、21:30、22:00に5〜9MHz帯の中央人民広播電台や地方局の周波数の近くで、不定期に出ていた。
        
地下放送の再編

 1974年4月、「解放軍之声」、「戦闘師」は当初の「無産者戦闘師」の名称で、「火花」が「火花台」と改称して再開した。再開と同時に放送の形式も変えた。三者とも「インターナショナル」で開始・終了するようになった。(9)「火花台」の開始アナウンスは「請注意! 請注意!這里是火花台。向全国青年同志広播」。「解放軍之声」は「請注意!請注意!下面請聴解放軍之声(2回繰り返す)」。「無産者戦闘師」は「請注意!這里是無産者戦闘師。現在向全国真実馬列主義立場的同志們広播」。
 三者は1975年秋ごろほぼ毎日、いずれかの局が、以下のスケジュールで、不定期に出ていた。(10)
19:00、19:15、19:30  7l65kHz
20:00、20:15、20:30  7520

文革の終結と地下放送

 1976年9月に毛沢東が死去し、翌年、文革の終結が宣言されたあとでもこれらの地下放送は活動を続けた。1978年、新たに現れたのが「十月風暴広播電台」である。(11)内容は毛沢東路線を賛美し、指導部を資本主義路線を歩むものと批判した。当初は朝のみの放送で、6時ごろから8時半にかけて7175、9656、9674、9710kHzを使用していた。「インターナショナル」で開始・終了、「十月風暴、十月風暴、十月風暴広播電台」というアナウンスが出た。

中越戦争と「八一電台」

 1979年3月、中越戦争の勃発とともに、別の地下放送が出現した。この局の出現を伝えたのは「ベトナムの声」放送であった。79年3月10日のバンコク発AP電は同放送の報道として「中国領内にある秘密放送局が9日から反中国情報を流し始め、中越国境軍事衝突に関してはベトナムを支持している」と伝えた。(12) 
 BBC・Monitoring Serviceが発行するWorld Broadcating Information(WBI)1979年3月15日号は次のように述べている。「3月10日のベトナムの声国内向け放送はニュースの中で、”八・一”という中国の局が前日22:00に19メーターバンドで放送しているのが受信された、と報じた。このニュース及び東南アジア向け英語放送でベトナムの声放送は、”八・一”は中国人民解放軍が運用しているもので、ベトナムに対する中国の行動に反対する内容を流している、と述べた。徹底的に捜したが、”八・一”の存在は確認できなかった」
 同4月19日号は「4月11日から12120kHzで聞こえている」とし、同4月26日号は「アナウンサーの発音は生粋の中国人の発音に近く、中国北東部出身の人物と思われるが、放送内容の言葉の使用法は下手で、中国人以外の者が書いているものと考えられる。技術的な調査によると、送信機の所在地は中国の北東部国境を越えた所にある可能性がある」としている。
 アナウンサーは2人、それぞれ北方系と南方系のなまりを持っていた。「八・一」は中国人民解放軍の創立記念日を指している。「ベトナムの声」放送は、その後もしばしば同放送の報道を引用している。(13)当初の2年間は、21:00〜01:30の間の毎正時と30分に出ていたが、1981年4月16日から、毎57、27分に出るようになった。1981、1982、1985年の夏は、約1カ月間休止している。約5分間の放送で、終わりに「以上是八一電台的広播」と出た。
      
第二の中波地下放送

 1979年5月、中波で新たな中国地下放送の存在が確認された。1235kHzで21:20に終了し、不定期であった。(14)同放送は「中国人民之声」と確認された。(15)21:00、22:00、22:30などに約15分間。西日本や沖縄で良好に受信された。(16)1988年ごろには、毎週木曜、金曜の21:00,22:00,22:30にに集中していた。アナウンサーは男性1人、女性2人。(17)
       
「紅旗広播電台」「八一電台」の停止

 「紅旗広播電台」は1977年ごろは休止状態だった。1978年には、23:00、23:30(18)、1981年からは、21:45、22:15、22:45、23:15の時間に、それぞれ同一の内容を2回繰り返した。1981年7月19日からは特に強力に入感するようになった。1986年5月5日からは、夏時間の採用とともに1時間早まった。(19)  中国当局は地下放送に対し、出現当初から妨害電波を出していたが、1982年5月末から一時中止した。1984年6月5日から再開したが、「八・一電台」に対しては、妨害を再開しなかった。
 「紅旗広播電台」は1986年11月29日の放送を最後に停止した。(20)「八一電台」も同じころ放送を停止した。(21)
 
「解放軍之声」系の再編

 一方、「火花台」「解放軍之声」「無産者戦闘師」は1976年から1977年初めにかけて活動が鈍り(22)、1977年5月から、次のような出現パターンが定着した。
18:00、18:15、18:30  7285kHz
19:00、19:15、19:30  7170
20:00、20:15      7525
 日によっで出てくる局は変わった。1981年ごろから各時間とも上記3波のうちいずれか1波を使用するようになった。1983年2月11日、このパターンが変化したことが確認された。7185、7525kHzのパラレル送信となった。(23)
 同年5月3日からは「十月風暴広播電台」が「火花台」などと同一のスケジュールで出るようになり、「火花台」なども偽「中央人民広播電台」の周波数であった9267kHzを使用するようになった。さらに、同年12月に9267kHzが9660kHzとパラレル送信であることが確認された。(24)
 偽「中央人民広播電台」は1978年ごろから、21:00、23:00に出現するようになった。1983年には、7185、7525kHzのパラレルか9267、9660kHzのパラレルの何れかになった。(25)1982年ごろには「火花台」は木曜に集中して出現するようになった。
 1984年4月ごろから、「火花台」は9660kHz,「解放軍之声」は7185kHz、「十月風暴広播電台」は9267kHz、偽「中央人民広播電台」は7525kHzというパターンとなった。
 「無産者戦闘師」は同年3月19日を最後に聞こえなくなった。(26)
 1985年6月には、さらに「火花台」がほぼ活動を停止し(27)、「解放軍之声」「十月風暴広播電台」の放送時間が23:00〜00:00間に変更され(28)、金曜から月曜にかけて現れることが多かった。
 偽「中央人民広播電台」の出現は金曜に集中していた。放送時間は、86年5月9日から、夏時間の採用と同時に1時間早まり、20:00、22:00となった。(29)

民主化運動と地下放送の終焉

 「解放軍之声」「十月風暴広播電台」偽「中央人民広播電台」は1989年の天安門事件の直後にその長い歴史の幕を閉じた。(30)「中国人民之声」も同じころ聞こえなくなった。代わって現れたのが「民主広播電台」である。(31)7125kHzで18:00〜01:00の間、12分間の不定期の放送であった。「民主是当前世界不可抗拒的潮流。只有民主才能救中国。中華児女們、起来!。。。埋葬中国最後一個封建王朝」というスローガンを叫んだ。合唱曲「黄河」の「保衛黄河」で終了した。同放送はいつの間にか姿を消した。(32)
1990年8月上旬、「民主之声広播電台」が8057kHzで出現した。深夜から未明にかけて1時間前後の放送。9月下旬から10月上旬、1991年2月、6月受信された。(33)

その正体は?

 では、この様な地下放送を行っていた者の正体は誰なのか? 局名を変えてはいるものの、使用周波数などからみて「火花(台)」「解放軍之声」「無産者戦闘師」「紅軍広播站」偽「中央人民広播電台」「十月風暴広播電台」「民主広播電台」は明らかに同一送信機を使ってた。
 一方、「中国共産党広播電台」「解放軍積極分子戦闘兵団広播電台」「真正代表無産階級的工農広播電台」「新聞与音楽電台」「局名のない文芸局」に共通するのは、放送が始まる前、マイクのスイッチをいれるような「コトン」という音が入ったことである。音質も似ており、信号の強さも同じようだったことから、同一の送信機を使用していたと考えられる。
 米国CIAに勤務していたVictor Marchetti、Johon Marks共著の"The CIA and the Cult of Intelelligence"によると、「CIAは文革中に台湾に2台の送信機を設置し、中国を混乱させるために謀略放送を行った」とある。「中国共産党広播電台」系はこれである可能性が強い。
 サンケイ新聞は1971年4月9日付の「ナゾの地下放送」と題する記事で、「(解放軍之声の)発信地は沖縄あたりで、米軍関係者あたりの手によって組織された地下放送ではないか」というラヂオ・プレス(RP)の話とともに、「論理は、ソビエト共産党の路線にものった点があり、ソビエト基地説もある」と伝えた。
 米国のラリー・マグネ氏は1973年発行の"How to Listen to the World" (7th Ed.)で「火花台」はソ連のKGBが行っているものとし、スタッフは亡命中国人でモスクワのSun Yatsen大学出身の”第28ボルシェビキ・グループ”であると述べている。この記述はその後、多くの本に引用されている。(34)しかし、マグネ氏はこの説の根拠については全く示していない。
一方、D・コンデ著「CIA黒書」(l968年)は、「1966年の夏以来、中国本土周辺を『海賊放送船団』が就航を始め、中国人で放送を聞く能力のあるもの、聞きたがっている者の耳に、ワシントンのメッセージを注ぎ込んだ。これは最も腹黒い種類に属する”黒い”ペテンの宣伝であり、国家首脳の間に混乱をまき散らし、中国を内部から崩壊させることを企図していた」としている。
 ”Far Eastern Economic Review"誌1979年5月4日号はソウルからの報道として、「八・一電台」はウラジオストク地域からの放送で、発音が東南アジアのナマリであることからベトナム人がソ連と協力して行っているのではないか、としている。
 BBC・WBIは中国地下放送については「八・一電台」のみを取り上げ、他は黙殺していた。WBIが初めて「火花台」を取り上げたのは1983年10月20日号であり、「ベトナムの声」放送を引用しての報道であった。同年11月10日、17日号では、「十月風暴広播電台」「火花台」という地下放送が開始したという「ベトナムの声」放送の報道を伝えるとともに、「実際には、これららの放送は数年(several years)にわたり活動している」という編集者注を付けた。「解放軍之声」については同年12月8日号、「無産者戦闘師」は1984年1月5日号、偽「中央人民広播電台」は1985年9月12日号で、それぞれ初めて受信されたと報じた。
 しかし、WBIは通常、地下放送については、その発信地を推定でも載せているが、中国地下放送については、「八・一電台」を除いて、まったく触れなかった。
WBIに極東地区の情報を提供しているのはCIAとつながりのあったForeign Broadcast Information Service (FBIS)であり、FBISが1970年代に出していた”Broadcasting Stations of the World" にはCIAが関係していた地下放送はリストされておらず、中国地下放送も載っていなかった。これは何を意味しているのであろうか。
 BBCが「火花台」などの存在を伝えてから、マスコミが報じることとなった。1984年4月にロサンゼルス・タイムズ紙に載った同紙北京特派員電は「西側のモニターは、南シナ海の船上からの放送であると見ている。BBCは台湾が行っていると見ているが、ソ連が行っていると見る西側外交筋もいる」と伝えている。同記事は台湾の中央日報(4月16日付)に転載された。
 1984年5月7日付のニューヨーク・タイムズ紙は「信号の強さから、ベトナムからという見方が強まっている」としている。
 "Asia Week"誌(1985年4月26日)は「『八一電台』はソ連のシベリアから送信されており、『火花台』は東シナ海の船上からの放送と思われる。放送を分析している人は、台湾が関わっている可能性を否定していない」とし、その理由として台湾の放送が使い、中国ではほとんど使われない「中共」、「大陸」などという言葉を使っていることを挙げている。
 "Jane's Defence Weekly"誌(1985年7月27日)はバンコク発の記事で、「火花台」「十月風暴広播電台」「八・一電台」は南シナ海の船上からの放送とみられるが、台湾が行っているのか、ソ連なのか不明とし、さらに同年10月5日の同誌は「ソ連がベトナムと協力して行っているのではないか」という見方を強めている。
 一方、VOA北京特派員は1985年9月11日の放送で「八・一電台」はベトナムから出ていると伝えた。同年9月9日のデーリー・テレグラフ紙は「八・一電台」はソ連からの放送であるとしている。
 このように、地下放送の発信地をめぐってはマスコミの報道は混乱している。1982年、NHK外国放送受信所の施設を借り、これらの放送の方向探知調査を行った。それによると、「八・一電台」は325度、「火花台」は250度の指向性を持つアンテナを使用した場合、最も信号が強かった。受信所を中心にした各都市の方位は、台北237度35分32秒、上海255度48分52秒、ウラジオストク326度35分32秒、ハバロフスク349度27分18秒である。
 「八・一電台」については、BBCなどの情報を裏付けており、ソ連によるものと断定できる。「紅旗広播電台」も方向探知調査により、ハバロフスク付近から送信されていたとみられる。
 「八・一電台」「紅旗広播電台」の論調は、反米帝国主義、反日本軍国主義、開放政策批判で、米中、日中の離間を狙ったものであった。「八・一電台」で注目されるのは、林彪ら軍人を四人組らの被害者として擁護している点である。
 中ソの和解が進む中、両放送が停止したこともソ連基地説を裏付けている。「紅旗広播電台」が停止後、ソ連の「和平与進歩広播電台」中国語放送に同放送のアナウンサーの声に酷似した人物が登場した。(35)
 一方、方向探知は「解放軍之声」系が東シナ海の船上からの放送という説を証明している。毎年夏、台風が台湾海峡にあるときには「解放軍之声」系の地下放送は出現しなかった。状況的には台湾によるものとみるのが妥当であろう。(36)。「中国人民之声」は偽「中央人民広播電台」のアナウンサーの声と非常に似ている。
 Lawrence Soley, John Nichols共著の"Cladestine Radio Broadcasting"(1987年)は「解放軍之声」はCIAによって始められ、1972年ころ台湾当局に運営が移されたのではないかと推測している。
 同書は「八・一電台」がソ連やベトナムとの関係を改善させるような形で中国政府を批判はしているが、中国政府の打倒までは呼びかけていないのに対し、「解放軍之声」系は中国政府の転覆を呼びかけ、ソ連やベトナムとの関係にはほとんど触れない点を指摘している。
 一方、「民主之声広播電台」は台湾による別の系統と推測される。
 これらの放送は”ブラック・プロパガンダ”の典型である。いまだにその真の正体は明らかになっていない。

 (本稿はアジア放送研究会が1986年に発行した「中国地下放送動向分析」を加筆、訂正したものである)
(C)1986,1997 Asian Broadcasting Institute





(1)文革以前にも中国からの放送を装った謀略放送があった。1976年1月17日付けのワシントン・ポスト紙によると、中ソの関係が悪化し始めていた1960年代初め、CIAは北京放送を装い、ソ連の指導者を攻撃する放送を行ったとある。当時の日本の無線雑誌にも同放送とみられる局の受信報告がある。
(2)日本短波クラブ会誌1968年4月号に、赤林隆仁氏が2月26日に受信、不明局として報告している。
(3)Sweden Calling DX-ers 1971年10月1日号への鳥居英晴氏の報告。
(4)Tokyo DX Club 会誌1971年9月25日号への鳥居英晴氏の報告。
(5)「火花」についてはSweden Calling DX-ers1972年8月22日号に高橋伸明氏の受信報告がある。「戦闘師」については「電波技術」誌1973年10月号に細野誠一氏の受信報告がある。「解放軍之声」についてはJapanese Association of DX-ers会誌1974年3月1日号に受信報告がある。不活発ながら放送は続けられていたようだ。
(6)日本短波クラブ会誌1972年5月号に宇草勲氏が「7290kHzで不明中国語地下局を受信。15:15〜15:23GMT.”解放軍之声”ではない。軍隊行進曲で終了・開始。3月23日と24日に受信」とリポートしている。これが同放送であることは間違いない。長瀬博之氏は同局のモニター結果を「電波技術」誌1972年9月号に詳しく発表している。
(7)「短波」誌1976年9月号に同年5月16日の受信報告がある。
(8)正式に確認されたのは長瀬博之氏で、1974年5月1日22:00に7530kHzで受信。しかし、「電波技術」誌1972年4月号に川口大助氏が「2月8日19:30から20:00過ぎまで、5025kHzで中国語地下局を受信」という報告を寄せており、同放送である可能性もある。
(9)長瀬博之氏は1974年4月11日に7525kHzで「解放軍之声」が「インターナショナル」で開始・終了するのを確認している。同氏は4月5日に「無産者戦闘師」とでているのを確認している(Japanese Association of DX-ers会誌1974年4月16日号)。
(10)Japanese Association of DX-ers会誌1975年11月15日号の宇草薫氏のリポートによる。
(11「アジア放送研究月報」1981年12月号の西田邦浩氏の報告。
(12)AP電は同放送を「北方一号」としているが、「八・一」の誤訳であることは間違いない。これに先立って、小河隆幸氏が3月3日に「八・一電台」を受信している(「短波」誌1979年7月号)。
(13)1983年3月24日朝日、読売=RP電など。
(14)「短波」誌1979年10月号の長瀬博之氏の報告。
(15)「アジア放送研究月報」1980年12月号の高嶋秀敏氏の報告。
(16)1979年8月15日の台北発中央社電は「湖南地区に『湘江人民之声』と称する反共地下放送が5月から放送を開始。周波数は1020kHz前後。放送は不定期で、約10分間の放送。1975年2月、ベトナムへの援助物資を南寧に運ぶ途中、衝陽でなくなり、その中にあった送信機をこの秘密局は使っている」としている。
(17)「アジア放送研究月報」1988年5月号の儀間辰男氏の報告)
(18)「短波」誌1978年12月号の長瀬博之氏の報告。
(19)「アジア放送研究月報」1986年6月号の須賀哲氏の報告。
(20)「アジア放送研究月報」1987年1月号の須賀哲氏の報告。
(21)1986年12月25日の共同通信英文ニュースの報道。
(22)1977年3月に近藤哲也氏が「解放軍之声」を受信している(「アジア放送研究月報」1986年11月号)。
(23)「短波」誌1983年6月号の浦本貴正氏の報告。
(24)「アジア放送研究月報」1984年2月号の青木茂紀氏、今野直樹氏の報告。
(25)「アジア放送研究月報」1983年7、9月号、1984年2月号の青木茂紀氏、今野直樹氏の報告。
(26)「アジア放送研究月報」1984年5月号の日向勇美氏の報告。
(27)その後は1988年2月28日と11月11日の受信記録があるのみ。「アジア放送研究月報」1988年5月、12月の各号。
(28)「アジア放送研究月報」1985年7、8月号の日向勇美氏の報告。
(29)「アジア放送研究月報」1985年6月号の日向勇美氏の報告。
(30)「アジア放送研究月報」1989年9月号の近藤哲也氏の報告。
(31)近藤哲也氏が7月31日に受信。「アジア放送研究月報」1989年9月号の近藤氏の報告。
(32)「アジア放送研究月報」1991年8月号に西田邦浩氏の受信報告がある。
(33)「アジア放送研究月報」への近藤哲也、高嶋秀敏、山下透の各氏の報告。
(34)"Radio Power" by Hale (1975) p.111, "International Radio Broadcasting" by D.Browne (1982) p.241, "Clandestine Confidential" by G.Dexter (1984) p.47 また、1974年11月6日付の朝日新聞の記事に「ロイター電によると、ソ連は中国人亡命者による特別放送局を持っている」という一節がある。
(35)「アジア放送研究月報」1988年4月号の西田邦浩氏の報告。 
(36)1983年11月7日、17:13〜17:37に9268kHzで「何日君再来」など音楽だけを流す局を鳥居英晴氏が受信している(「アジア放送研究月報」83年12月号)。地下放送の試験放送とみられ、台湾関与説を裏付ける有力証拠である。


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