中華人民共和国各放送局略史

(3)建国初期(省級、地区・市級−−華北地区)

《省級、地区・市級》
◎華北地区
    放送局名                 簡 史            
北京人民広播電台  
          
          
          
          
1949.2.2  北平新華広播電台放送開始。        
1949.3.   北平人民広播電台と改称。更に、北平(北京)
     新華広播電台第二台、北京市人民広播電台と改 
      称。                    
1951.3.1  北京人民広播電台と改称。         
天津人民広播電台  
          
1949.1.15  天津新華広播電台放送開始。        
1949.5.15  天津人民広播電台と改称。         
河北人民広播電台  
          
1949.9.1  保定人民広播電台放送開始。        
1951.4.1  河北人民広播電台と改称。         
唐山人民広播電台  
          
1948.12.13 唐山新華広播電台放送開始。        
1949.7.2  唐山人民広播電台と改称。         
山西人民広播電台  
          
          
          
          
          
          
          
1949.4.25  太原新華広播電台放送開始。        
1949.6.   太原人民広播電台と改称。         
1950.1.1  太原市向けの第二套節目を設置。      
1950.12.20 山西人民広播電台と改称。         
1951.10.4  全省向けは山西人民広播電台第一台、太原市向
      けは山西人民広播電台第二台と称す。     
1952.1.1  山西人民広播電台と太原人民広播電台を分離 
      (太原人民広播電台は1953年1月廃止)。   
平原人民広播電台  
          
          
1950.3.10  新郷人民広播電台放送開始。        
1951    平原人民広播電台と改称。         
1952.11.30 放送中止。                
察哈爾人民広播電台 
          
          
          
          
          
          
1948.12.24 張家口新華広播電台が再建され放送開始。  
1949.5.1  張家口人民広播電台と改称。察哈爾全省向けの
      第二台を増設。               
1950.11.30 第二台が察哈爾人民広播電台と改称。    
1951.4.22  張家口人民広播電台は放送を中止し察哈爾台に
      合併。                   
1952.12.6  察哈爾省廃止により放送中止。       
綏遠人民広播電台  
          
          
          
1950年初め 帰綏人民広播電台と改称。         
1952    綏遠人民広播電台と改称。         
1954    綏遠省が内蒙古自治区に併合され、綏遠台は内
      蒙古人民広播電台となる。          
包頭人民広播電台  
          
          
1949.9   放送開始。                
1953    自局制作は中止。中央台の転播台となる。  
1956.6.1  自局制作再開。              
内蒙古人民広播電台 
第二台       
          
          
          
          
          
          
1950.11.1  内蒙古烏蘭浩特人民広播電台放送開始。   
1951年春  内蒙古自治区人民政府所在地に内蒙古人民広播
      電台第一台を設置する事が決定される。    
1951.5.1  烏蘭浩特台は内蒙古人民広播電台第二台と改称
1954.7.1  海拉爾へ移転。              
1955.1.   呼倫貝爾盟の盟級局となる。        
1969.7.   呼倫貝爾盟が黒竜江省所属となり、呼倫貝爾人
      民広播電台と改称。             
内蒙古人民広播電台 
          
          
          
1954    綏遠省が内蒙古自治区に併合され、省都帰綏は
      呼和浩特と改称の上、自治区首府となる。   
1954.3.6  綏遠人民広播電台から内蒙古人民広播電台と改
      称。                    
       華北地区の行政区画の変遷(建国直前から1950年代まで)      
                              [ ]内は省都  
   北平市 1949.10 北京市と改称                      
   天津市 1958.2 河北省へ編入                      
   河北省[1948 保定市]  1948.8一部が平原省に(1952河南省・山東省へ) 
      [1958.4天津市]  1952 察哈爾省より一部編入          
                1956 熱河省より一部編入           
                1958.2天津市を編入              
   熱河省[1948.11承徳市]  1956 河北省・熱河省・内蒙古自治区へ分割編入 
   山西省[1947.4太原市]                         
   1947.5内蒙古自治区[烏蘭浩特市]                    
      [1949年察哈爾省張家口市、1952年綏遠省帰綏市へ暫時移転]     
      [1953.11.1綏遠省帰綏市(1954年、帰綏市は呼和浩特市と改称)]   
                1952 察哈爾省より一部編入          
                1954 綏遠省を編入              
                1956.4甘粛省の一部を編入           
    綏遠省[1948帰綏市]  1954 内蒙古自治区へ編入           
    察哈爾省[1945張家口市]1952 山西省・河北省・内蒙古自治区へ編入   
 以上11局(太原、張家口を加えると13局)の内、北京人民広播電台・天津人民広播電台は直轄市の局(天津市は1958年2月から1967年12月まで、河北省轄市に格下げとなっていた)、また唐山人民広播電台・包頭人民広播電台はそれぞれ、河北省轄市である唐山市、綏遠(スイエン)省(後に内蒙古自治区)轄市である包頭市の局。他の7局は省・自治区の局である。
 「解放区」時代、華北で初めて設置された放送局は張家口新華広播電台(1945年8月)で、邯鄲(カンタン)新華広播電台(1946年9月)がこれに続いた。しかし、張家口台は晋察冀(シンサツキ)解放区を、邯鄲台は晋冀魯豫(シンキロヨ)解放区を対象とした放送で、共に1948年末までに中央局・陝北新華広播電台に統合されてしまった。
三大戦役の一つ「平津戦役」(1948年12月5日〜49年1月)で、12月24日、張家口が“解放”。張家口新華広播電台が再建された(上掲の張家口新華広播電台は阜平へ移転し晋察冀新華広播電台と改称した後、陝北台に統合)。現在でこそ張家口は河北省に所属しているが、当時は察哈爾省の省都であった。察哈爾省は最終的には1952年に内蒙古自治区・山西省・河北省へ分割され消滅。張家口からの放送も中止されてしまう。
 一方、当時の河北省都・保定には1949年に放送局が設けられ、1951年に河北人民広播電台と改称された。1958年、省都が天津に移動したため、河北台も保定から天津へ移転。天津台と合併し「河北天津人民広播電台」となったものの、1960年4月に両者は分離した。天津市が再び直轄市となり、河北省都が保定に戻ると、河北台も保定に復帰。1968年には省都が石家荘となり、河北台も同地へ移転した。
 1947年5月、興安省の全部と遼北省・察哈爾・嫩江(ドンコウ)省の各一部を併せて、内蒙古自治区が設置され、首府は烏蘭浩特(ウランホト)に置かれた。当時未だ西部地区が「解放」されておらず、これが完了するのは1949年9月下旬のことである。1949年12月には自治区人民政府・中共内蒙古分局は、張家口(察哈爾省省都)へ暫時移転した。
 ところが1950年11月、烏蘭浩特で内蒙古烏蘭浩特人民広播電台が放送を開始。党・政府機関の所在地に放送局を設置し、機関が移動すれば局も共に移動する中で、極めて異例の措置である。「内蒙古烏蘭浩特人民広播電台」という長い局名も、このためであろう。
 1951年春、内蒙古自治区人民政府所在地に内蒙古人民広播電台第一台を設置する事が決定された。西部地区を第一台が、東部地区を第二台がそれぞれカバーするという構想であったらしい。
 1951年5月1日、内蒙古烏蘭浩特人民広播電台は、内蒙古人民広播電台第二台と改称。1954年5月には中共内蒙古分局東部工作委員会と共に海拉爾へ移転した(7月から放送再開)。ところが1955年、東部工作委員会が廃止され、局は呼倫貝爾盟委員会の指導下となったため、実質上は盟級となってしまう。1969年には同盟が黒竜江省へ編入され、呼倫貝爾人民広播電台と改称された。
 1952年、自治区人民政府と内蒙古分局は、綏遠省帰綏に移転。更に1954年、綏遠省は内蒙古自治区に編入となり、首府帰綏は呼和浩特と改称。綏遠人民広播電台も内蒙古人民広播電台と改称された。
 「平津戦役」により、1948年1月15日に天津が“解放”され、その日の内に天津新華広播電台が放送開始。北平“解放”は1月31日で、2月2日に北平新華広播電台(北平市向け)が放送を始めた。
 3月25日、陝北台が北平に入り北平新華広播電台が中央局となると同時に、北平市向け放送は北平人民広播電台となった。この時点で「人民広播電台」と称する局は、他にない筈。各地の「新華広播電台」が「人民広播電台」と改称するのは、この年の5月である。どうしたものか、9月1日に「北平新華広播電台第二台」と再び新華広播電台に戻り(9月25日更に北平新華広播電台第二台)、12月には「北京市人民広播電台」、1951年3月に漸く現在の名称「北京人民広播電台」となった。
 尚、平原人民広播電台は1949年8月から1952年まで置かれた平原省の局である。同省の省都は新郷であった。

(西田邦浩)


本稿は「アジア放送研究月報」に掲載されたものを再録しました。

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