中華人民共和国各放送局略史

(2)建国初期(中央級、大区級)

 前回の「解放区の放送局」に続き、今回からは“中華人民共和国初期人民広播電台簡史”(『中国広播電視台年鑑1991』所載)の要点を級及び地域ごとに紹介する。この記事では、建国(1949年10月1日)前の沿革がかなり省略されているため、煩わしいとは思われるが、前回記事も参考にされたい。
 尚、同記事には次の様な但し書きがある。「建国初期の大区級台とその所在する市の市台、省級台と省都の市台は二つの局名を持ちながら組織は一つであった。従って、代表的な市台以外は列記していない」。
 また、行政区画については『中華人民共和国行政区画手冊』(1986年 中華人民共和国民政部行政区画処編 光明日報出版社)、『中国近現代政区沿革表』(1987年 張在普編著 福建省地図出版社)によった。

《中央級》
    放送局名                 簡 史            
中央人民広播電台  
          
          
          
          
1940.12.30 延安新華広播電台放送開始         
1947.3   延安から移転し、陝北新華広播電台と改称。 
1949.3   北平へ移転し全国級放送局となり、北平新華広
      播電台、更に北京新華広播電台と改称。    
1949.12.5  中央人民広播電台と改称。         
北京広播電台    
          
          
          
          
          
1947.9.11  陝北新華広播電台が英語番組を開始。    
1950.4.10  独立の国際広播編輯部が設置され、「北京広播
                            
      電台」の局名を使用(華僑向け放送は「中央人民
      広播電台」)。               
1978.5.1  「中華人民共和国国際広播電台」と改称。  
 中央人民広播電台の前身「延安新華広播電台」の放送開始は1940年12月30日。しかし1980年12月23日に中央広播事業局が『人民広播誕生紀念日を1940年12月30日と改めることについての通知』を発するまでは、1945年9月5日が放送開始日とされていた。
 同局は1940年末に放送を始め、1943年に一旦中止、1945年に再開している。1945年の再開の際には、9月5日が正式放送開始日とされ、これに先立つ数週間の放送と1940年〜1943年の放送は試験放送と見做し、正式な局史に算入していなかった。
 ところが1970年頃から延安新華広播電台の放送開始日について疑問視する声が出始め、結局中央広播事業局が1980年末に上記通知を発し、この問題は決着した。事業局の発した文書には“試験放送”の文字はなく、恰も1940年末に正式放送が始まったかの様に記されている。
 しかし、「人民広播誕生紀念日」を1940年12月30日と定めた当時の責任者・温済沢氏は事あるごとに「その責任は私にある」と言いながらも、1945年9月5日以前の放送は試験放送であるとの認識に立っており、『新聞研究資料』第4輯(1980年8月)所載“延安新華広播電台籌建和試播始末(調査報告)”(趙玉明)も同様の立場である。
 延安新華広播電台の設立には、周恩来が大きく関わっている。
 周恩来は負傷した右腕の治療に1939年モスクワへ赴いた。退院後、コミンテルン指導者のジミトロフらと会い、延安に放送局を設けたい旨を伝えると、これがスターリンに伝えられ、コミンテルンによる援助でソ連製送信機1台が中国共産党に送られることとなった。1940年春、周恩来はこの送信機とともに帰国。かねてより放送局の設置を切望していた中共中央は、放送局の開設を決定し「広播委員会」を組織した(主任は周恩来)。無線・放送関係担当の中央軍事委員会「三局」は、30名余から成る「九分隊」を組織し、延安西北19kmの王皮湾村で放送局−延安新華広播電台の建設に着手。同年末の開局に至った。アナウンサーは、麦風(徐瑞璋)、姚ブン[雨かんむりに文]、肖岩、孫茜(ソンセン)の4名(何れも女性)がおり、このほか原清子という日本人が週1回の日本軍向け日本語番組を担当していた。しかし、設備の貧弱さから停波が絶えず、1943年春には送信機の致命的故障から、放送の暫時中止が中共中央により決定された。
 1945年8月中旬(下旬とする資料もあり)、延安新華広播電台は延安西北の塩店子村で放送再開にこぎつけた。大戦後、国共内戦が激化する中、1947年3月には国民党軍の攻撃が延安にも迫ったため、14日に子長県(中心地は瓦窯堡鎮)好坪溝(コウヘイコウ)村へ移転、21日(20日とする資料もある)からは「陝北新華広播電台」と名乗った(中共中央も延安を放棄)。
 攻撃は瓦窯堡にも迫り、3月29日、更に太行山東麓の渉県沙河村へ移転。同地には邯鄲新華広播電台(1946年9月1日放送開始)があり、陝北台は邯鄲台の施設を利用して放送を続けた。
 1948年5月、陝北台は河北省平山県西柏坡(セイハクハ)村へ移転した。延安放棄後、中共中央は毛沢東、周恩来、任弼時らと、劉少奇、朱徳らとに分かれ、後者は劉少奇を書記とする「中央工作委員会」を組織し、西柏坡で任務に着いていたところ、同月、毛沢東らも当地へ合流し、西柏坡は中共中央の所在地となった。近隣の阜平県には晋察冀新華広播電台(1947年1月1日放送開始。張家口新華広播電台が当地へ移転したもの)があったが、この期を以て廃局となり、メンバーは陝北台で職務に着くこととなった。
 1949年3月25日には陝北台は中共中央と共に北平へ移動し、北平新華広播電台と改称。しかし北平市向けの北平新華広播電台が既に放送を始め(1949年2月2日)ていたため、北平市向け放送は「北平人民広播電台」と改称された。同年9月27日、北平が北京と改称され、局名も北京新華広播電台となり、12月5日には中央人民広播電台と改称された。
 一方、海外放送の北京広播電台(中国国際広播電台)は1947年9月11日、陝北新華広播電台(河北省渉県の頃)が英語番組を始めたのが最初となっている。しかし『現代中国広播電視』には「1946年末から1947年初めに、延安新華広播電台が英語放送を行なった事がある」とある。また、張家口新華広播電台(1945年8月24日開局)には日本語による番組があったほか、1946年7月15日から英語放送を開始した(1946年10月11日、同局は張家口から撤退)。
 東北新華広播電台も英語・日本語・広州話の放送を行なっていた。英語は陝北台の中継、朝鮮語は朴世俣、日本語は楊明遠と八木寛、広州話は馮培(フウバイ)の各氏が担当していた。東北台が瀋陽へ移った頃に、これらの放送は中止された(1949年初め頃か)。

《大行政区》
    放送局名                 簡 史            
東北人民広播電台  
          
          
          
          
          
          
1946.9.23  東北新華広播電台放送開始(於佳木斯)。  
                           
1948.12.25 瀋陽へ移転。               
1949.5.  瀋陽新華広播電台、更に瀋陽人民広播電台と改称
1950.4.15  東北人民広播電台と改称。         
1954.8.31  東北行政区の廃止と共に放送中止。施設・人員
      は遼寧人民広播電台へ。           
西北人民広播電台  
          
          
          
          
          
          
1949.1.5  西北新華広播電台放送開始(於延安)。   
                           
1949.6.1  西安へ移転し西安新華広播電台、更に西安人民
      広播電台と改称。              
1950.9.1  西北人民広播電台と改称。         
1954.9.10  西北行政区の廃止と共に放送中止。人員・施設
      は陝西人民広播電台へ。           
華東人民広播電台  
          
          
          
          
          
          
1948.12.20 華東新華広播電台放送開始。        
1949.2.   済南へ移転。               
1949.5.27  上海人民広播電台の放送開始後、放送中止。 
1949.9.1  上海人民広播電台第一台が華東地区向け放送を
      開始。                   
1950.4.1  華東人民広播電台放送開始。        
1954.12.31 華東行政区の廃止と共に放送中止。     
中南人民広播電台  
          
          
          
          
          
          
          
1949.2.   中原新華広播電台放送開始(於鄭州)。   
                           
1949.5.23  武漢新華広播電台放送開始。        
1949.9.1  武漢人民広播電台と改称。         
1950.5.1  中南人民広播電台と改称。         
1950.5.13  中共中央中南局の通知により、湖北省級局を兼
      ねる。                   
1954.4.30  中南行政区の廃止と共に放送中止(1) 。   
西南人民広播電台  
|          
          
          
          
          
1950.1.1  試験放送開始(於重慶)。         
                           
1950.1.4  重慶人民広播電台放送開始。        
1950.5.5  西南人民広播電台と改称。         
1954.9.5  西南行政区の廃止と共に放送中止。     
                           
注(1) 武漢人民広播電台(武漢市向け)の項には「1953年4月末,中南台廃止」とある。

 「大行政区」(略称「大区」)は1949年〜1954年に設置された行政単位で、東北以下の六つがあった。1952年に「行政委員会」と改称されると同時に、単なる“中央政府の出先機関”とされ、1954年6月19日、中央人民政府委員会第32次会議で六大行政区の行政委員会廃止が決定された。
         1950.1.27     1950.11.22  1952.4.18      
華北区人民政府→中央人民政府直轄→中央人民政府→華北行政委員会:北京 
                   華北事務部            
                         1952.11.15      
東北区人民政府→    →      →   →東北行政委員会:瀋陽 
華東軍政委員会→    →      →   →華東行政委員会:上海 
中南軍政委員会→    →      →   →中南行政委員会:武漢 
西南軍政委員会→    →      →   →西南行政委員会:重慶 
西北軍政委員会→    →      →   →西北行政委員会:西安 
 「大区級」放送局は1950年までに華北以外の五大行政区に設置された。うち、東北・華東・中南・西北台は建国前の各解放区に設置された局からそのまま移行したものである。東北新華広播電台(東北人民広播電台)は最も早い1946年の放送開始で、哈爾浜広播電台を佳木斯(当時中共中央東北局の所在地)へ移転して建設したもの。佳木斯放送局は破壊されて跡形もなかったという。1948年7月7日には「総台」とされ、東北解放区における中央局としての扱いを受けるようになった。
 東北台は中共中央東北局の移動と共に、佳木斯→哈爾浜→瀋陽と移転を重ねた。その模様を整理すると下表の様になる。これによれば、1949年3月1日〜4月30日は瀋陽新華台の名で東北区向け・瀋陽市向け放送が行なわれ、5月1日〜9月10日は大区級が新華台、市級が人民台ということになる。ところが『中国現代広播簡史』では東北新華台は1949年5月1日に瀋陽新華台と改称したとあり、事情が違って来る。何れが正しいものであろうか。
  〈東北台〉=大区級       〈哈爾浜台〉=市級    〈瀋陽台〉=市級
                1946.4.28哈爾浜広播電台            
              /                        
1946.9.23東北新華台:佳木斯                         
     ↓          1947.4.20哈爾浜広播電台            
     ↓          1947.5.28哈爾浜新華台             
     ↓               ↓                 
1948.2  東北新華台:哈爾浜  [1948.2] 中止       1948.11.4瀋陽新華台 
     ↓               ↓            ↓    
1948.12.25瀋陽新華台:瀋陽  [1948.12.25]哈爾浜新華台 [1948.12.25]中止   
     ↓               ↓       1949.3.1 瀋陽新華台
     ↓          1949.5.1 哈爾浜人民台  1949.5.1 瀋陽人民台
1949.9.10 瀋陽人民台          ↓       1949.9.10 中止   
1950.4.15 東北人民台          ↓                 
1954.8.31 中止             ↓                 
 華東新華広播電台(華東人民広播電台)は中共中央華東局の指導で山東省五蓮県洪凝子村で建設が始まり、臨コウ[肉月に句]県程家荘へ移動した後、1948年9月12日に試験放送を開始。11月12日には、三大戦役の一つ「淮海戦役」が始まり、戦役も終盤の12月20日(終結は1月10日)に本放送となった。翌年2月には済南へ移転。5月27日に上海が解放されると華東区向け放送は上海台に移管された。しかし1950年には華東台の名称が復活し、1954年末まで放送が続けられた。
 西北新華広播電台(西北人民広播電台)は1948年の延安奪還後、新華総社広播管理部と中共中央西北局の決定により開局した。1949年5月20日に西安が解放された後、同地へ移転し西安新華広播電台、西安人民広播電台と改称。翌50年には西北軍政委員会の成立により西北人民広播電台と改称された。この際、西安市向けの西安人民広播電台が設置された。陝西省向けの『陝西節目』は1952年3月に始まり、西北台が陝西省級を兼ねるという変則的な形態が生まれたが、翌年2月には改めて陝西人民広播電台が開設された。1954年に西北台は廃局となり、陝西台へ移管された。

(西田邦浩)


本稿は「アジア放送研究月報」に掲載されたものを再録しました。

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